商品特徴
古代阿波の忌部氏―考古学からのアプローチ― 天羽利夫
6世紀中葉にドーム状石室を特徴とする忌部山型石室を有する古墳群(横穴式石室・円墳)が麻植郡(現・吉野川市)に出現し、6世紀後半に盛行する。承平年間(931~938)成立の「和名類従抄」には麻植郡に呉島郷・川島郷・忌部郷・射立郷の四郷があったと記されている。忌部山型石室を有する忌部山古墳群は「和名類従抄」の名「忌部」に、峯八古墳群と鳶ケ巣古墳群は名「川島」といった集落に位置したと推定される。忌部山型石室のルーツは「段ノ塚穴型石室」であり、考古学的には九州地域からの影響によって形成された可能性が高い。
本稿は、考古学の立場から、阿波の忌部氏は6世紀中葉には成立していたのではないかと想定するものである。
吉野川市の古墳とその時代―西ノ原・境谷・金勝寺・忌部山古墳等― 井形玲美
西ノ原・境谷・金勝寺・忌部山古墳等、吉野川市に現存する古墳や遺跡を紹介したものである。
大嘗祭と忌部氏について 福家清司
「阿波忌部氏」に関する確かな史料が極めて乏しいがゆえに誤解・曲解が多々ある。良質の史料に基づいて阿波忌部氏の実態解明に迫るとして、以下のように論述している。
先ず、中央忌部氏は中臣氏との対立の中で、803年「斎部」と改姓、807年『古語拾遺』を著すが、天長(824~833)以来大嘗祭に鏡劒を奉ることが絶え、氏族として衰退した。
阿波忌部氏の史料上の初見は、「正倉院御物絁銘」の天平4年(732)である。阿波忌部氏は麻だけでなく生糸生産・米作にも従事し、8世紀前半には、「忌部郷」だけでなく、「川島郷」など広く麻植郡全域に広がっていたと考えられる。但し、古代の戸籍編成は口分田班給が前提であり、山間地域でなく、麻植郡の平野部とその周辺地域であった。10・11世紀には、忌部姓のものが麻植郡以外の板野郡や三好郡にも居住している。
10世紀初め完成の『延喜式』によると、「践祚大嘗祭」に際しては「悠紀国」「主基国」が卜定され、畿内以外の周辺国から米粟などを栽培・貢進した。阿波国は「悠紀国」「主基国」卜定とは関係なく、那賀郡・麻植郡から「由加物」として各種産物が調進されたほか、麻植郡の忌部から「麁妙服」が織進された。なお、古代大嘗祭で阿波から麁服の織進が史料上確認できるのは、長和元年(1012)の三条天皇の大嘗祭が最後である。延久2年(1070)になると、祈年祭・月次祭の幣物受取を阿波国司を通じて忌部社に督促されており、阿波忌部の氏族集団が衰退し、祭祀不履行の状況になっていたことがうかがえる。
大嘗祭は、律令制下では、太政官→阿波国司→麻殖郡司→忌部氏という行政ルートを通じて、麻植郡の忌部氏による荒妙・由加物等の調進が行われた。しかし、平安中期以降、律令体制が不安定となると、このルートが機能しなくなる。神祇官は荒妙・由加物の安定的確保のために「阿波忌部氏」を直接的に掌握するシステムを構築する。具体的には「神祇伯家」→神祇官人(斎部氏か)→「左右長者」→「氏人」というものであり、「氏人」には「氏所役」として大嘗祭に際しての荒妙の織進や由加物の調進、さらには日常的にさまざまな課役が課せられていたと推察される。しかし、「御殿人」と「長者」との対立をうかがわせる史料もある。現地情勢の今後さらなる分析が課題である、と結んでいる。
中世の忌部氏について 福家清司
「阿波忌部氏」が古代から中世まで一貫して続いていたのかどうか、「阿波忌部氏の氏役」とされる大嘗祭の荒妙織進についても不変であったのかについて史料に即して概観するとして、『延喜式』・『兵範記』・『三長記』・『大嘗会本義』・『後二条師通記』・『仲資王記』・「三木家文書」等々の史料を分析し、以下のように結論づけている。
①中央忌部氏である斎部氏は古代律令時代以降、一貫して神祇官僚として活動してきたが、 鎌倉末期頃の京都では一族の数が極めて少ない状況にあり、記録上は江戸時代半ばには 氏族として消滅したかのような状況に陥った。
②践祚大嘗祭は律令制の弛緩とともに、その経費・所役等の賦課が困難となり、鎌倉末期 には三河国からの恒例の和妙神服の貢進が行われなかったという例も確認されるなど、 特に武家政権の下では大嘗祭も旧来通りに行われることはなかったようである。践祚大 嘗祭自体も文正元年(1466)以後二百年間以上行われず、江戸時代に復活しても内容面 では旧来と大きく異なったものであった。
③鎌倉初期頃の阿波忌部氏は、朝廷の神祇伯(神祇官の長官)によって氏長者が選任・補 任されるシステムに編成されたが、鎌倉中期以降になると、在地で「御殿人」グループ と「長者」グループの対立が発生するなど、荒妙・由加物調進をめぐる在地情勢は一枚 岩でなくなったと考えられる。
この論考で特に注目すべき指摘がされている。鎌倉期末に忌部の「氏長者」と「御殿人」グループとの対立があり、「忌部の契約」として知られる1332年の「阿波国御衣御殿人子細事」の史料は、「氏長者」に対立する新興グループが結束を固めるために「御代最初御衣御殿人」を紐帯とした一揆契状であると位置付けたことである。そして、「荒妙」織進は、もはや忌部氏であることとは無関係とされているという指摘である。
忌部神社をめぐって 長谷川賢二
古代において中臣氏とともに朝廷祭祀を担った忌部(斎部)氏と阿波など諸地方に忌部がいたが、地方忌部は本来、中央の忌部氏が設置した部民集団であった。大同2年(807)に斎部広成が撰述した『古語拾遺』に、中央忌部氏は地方忌部とは別の存在であり、神の系譜自体も異なると記述している。
承平年間(931~938)成立の『和名類従抄』に麻殖郡「忌部郷」の記載があり、ここが 阿波忌部の本貫であったと考える。延長5年(927)完成の『延喜式』「神名帳」によると、忌部神社は祈年祭に神祇官が奉幣する官幣大社であり、阿波忌部の祖神である日鷲命を祭神としたと註記されている。その所在は忌部郷であったと考える。『延喜式』践祚大嘗祭式に、阿波国が貢納する由加物の一部である麁布などの調達を阿波忌部が担っており、忌部神社は阿波と王権、天皇即位儀礼を結びつける存在であり、他の神社とは異なった独特の位置付けをされていた。また、大嘗祭に供えられる「麁妙服」が「阿波国の忌部織るところ」とされ、大嘗祭において特別扱いされた。この古代において阿波忌部や王権への奉仕にかかわって重要な存在であった忌部神社は、やがて所在不明となる。
忌部神社の所在地をめぐって江戸中期・明治初年に論争が繰り広げられた。本稿は、この2度にわたる所在地論争にかかわった貞光側の主張と論拠、明治初年の小杉榲邨の考証と政府決定、貞光側の地域上層農民の運動、小杉の論拠である古文書を偽文書とし西端山御所平を忌部神社所在地とする政府決定、さらには徳島市勢見山への忌部神社新設へと二転三転した経緯を詳述している。そして、大正4年(1915)の大嘗祭における麁服貢進の「復活」によって、再び山崎の地も阿波忌部に連なる正統な忌部神社の所在地として復活を遂げたと指摘している。最後に、近代における端山側の主張と根拠からは「歴史の創造」、地域住民のアイデンティティの根拠として求められる歴史像という問題もうかがうことができ、興味深いと結んでいる。
古代の忌部大社はどこにあったのか―江戸時代の人々の模索― 丸山幸彦
古代において麻殖郡は阿波の政治・文化の中心であった国府に近く、粟凡直氏という一族が中心となって活動している先進的な地域であった。麻殖郡は四つの郷から成り立っており、その内の一つが忌部郷であり、忌部神社もそこに所在していた。しかも忌部神社は阿波の古代神社のなかでも大きな神社のひとつであった。しかし、忌部郷・忌部神社の所在地は以後の歴史の流れのなかで失われ不明になっていた。長い空白期間をおいて、近世江戸時代になり17世紀末に高越山の神として復活する。そして、18・19世紀になると在地の村々で神官や庄屋などその地域の歴史を研究している人々が古代の忌部郷・忌部神社はどこにあったのかに目を向けた研究が始まる。しかし、結論は得られないままに終わってしまった。19世紀後半の明治維新になって以後も忌部神社はどこにあったのかについての論議は続き、そのなかで小杉榲邨という阿波出身の歴史研究者が忌部郷を種野山など麻植郡山間部を中心に存在したとし、忌部社をその山間部と平野の境にある山崎村王子神社であるとする説を打ち出した。古代の郷は律令国家が支配していた水田を中心とした平野地帯に設定されていたものであり、江戸時代の研究者らも忌部郷は吉野川沿いの平野地帯にあったことを前提として研究を進めていた。ところが小杉は、忌部郷を山間部を中心にあるとした。古代の忌部郷は律令国家が支配下にまだ入れていない山間部(麻植山分)に位置するものとする小杉の説は無理な説であるにもかかわらず、それが正しい説として定着し、21世紀の今に至っている。麻植郡の歴史を見ていく上で忌部郷の位置の問題は重要であり、改めて考え直す必要がある。
この論考で注目すべき論点がある。①古代の忌部郷・忌部神社は班田のある平野部にあったのであり、山間部は論外であること、②古代忌部神が17世紀末に和紙生産に関わって紙祖神(天日鷲命)として復活し、18世紀前半に和紙生産・販売地である川田・山崎・貞光で忌部神社所在地論争が起きたこと、③明治初期に小杉榲邨が三木文書の偽作史料を根拠に山崎の王子神社を忌部社と断定したことは誤りである、の3点である。
麻植郡と小杉榲邨 丸山幸彦
古代忌部郷に忌部氏・忌部神社が所在していた。その後、鎌倉時代までには姿を消すが、17世紀末の元禄年間ごろから、和紙生産・販売にかかわって古代忌部神が紙祖神(天日鷲神)として復活してくる。18世紀の時点で、この天日鷲神への信仰は和紙生産・販売の中心地となっている麻植郡・美馬郡に急速に広がっていき、天日鷲神(忌部神)を祭る神社の本社はどこかをめぐっての紛争が起こる。1740~60年代に美馬郡の貞光、麻植郡の川田、山崎の神社の神主が自社が忌部本社であるとする論を展開する。忌部本社をめぐる神主官の対立の背後には和紙の生産・販売をめぐる地域間対立があったとみてよい。藩は白川神道に属する川田の種穂社を本社とし、貞光と山崎の神主は追放し決着した。
この論争において、各神社とも根拠のない伝承・古代文献をねじまげる解釈・裏付けになる遺品の偽造により、自分たちにとって都合のよい歴史を作り上げた。同じように、18世紀末、三木家分家三代目武之丞は、三木家本家復興のため、先祖が南北朝期に遡る古代忌部氏の系統を引く在地領主であったことを示すために大量の偽作文書を混入した。
明治新政府の神道政策により、明治初年に忌部神社所在地論争が再燃する。
本稿は、この論争において小杉が論拠とした「御衣御殿人」一揆契約状(三木家文書)と貞光側の主張を分析し、次のように断定している。小杉の論は、忌部郷を種野山という山間部におき、式内忌部神社をその入口の山崎においたことは無理な論であった。貞光側の論も貞光がかつては麻植郡であったということはありえないし、かつ忌部神社が山間部に位置するというのも成り立たない。小杉の論は偽作か否かの論議がないまま、いつのまにか忌部郷・忌部神社にかかわる正しい説として徳島県内に定着してしまう。また、今の大嘗祭の荒妙貢進といわれているものは江戸時代になって川田の白川神道系の種穂神社を舞台に作り出されたものであり、しかもそれが明治になってから山崎の神社で行われたものになっており、古代の忌部氏・忌部神社とは何のかかわりもない。明治の小杉説に基づいて、20世紀になって新しく作られたものであると結論づけている。
本稿の特色は、①17世紀末に古代の忌部神が和紙の始祖神(天日鷲神)として復活し、和紙の生産・販売をめぐって18世紀に忌部本社所在地論争が繰り広げられ、②明治初期に小杉榲邨が忌部神社所在地の根拠とした「御衣御殿人」一揆契約状は偽文書である、③現在の麁服貢進は、江戸時代に白川神道系の種穂神社を舞台に作り出されたものである、と断定したことである。
阿波忌部の近代―大正天皇即位の大嘗祭をめぐって― 長谷川賢二
延長5年(927)の『延喜式』段階の由加物の調達に阿波忌部が携わったことは事実であるが、貢納の主体は国(国司)であった。11世紀以降の麁服も貢納主体は阿波国であり、阿波忌部が調達するというあり方も継続したものと思われる。12世紀中葉に「荒妙御衣」が由加物から分離されている。大嘗祭における阿波忌部の役割が麁服に限定されるようになっていたためと思われる。古代と中世では、阿波忌部と麁服を取巻く構図は同一ではなく、古代以来のあり方が単純に連続したと考えるのは避けるべきであり、大嘗祭のあり方自体も時代による変容を考慮すべきである。
「三木家文書」における大嘗祭の麁服にかかわる古文書の年代は13世紀末から14世紀前半までに限られており、以後は麁服の貢納が途絶したものと見られている。大嘗祭自体も、文正元年(1466)の後土御門天皇のときを最後として中断され、江戸時代になって復興されるも、阿波忌部の麁服は「昔」の故実として伝えられるのみだった。
この阿波からの麁服貢納は、少なくとも440年以上も途絶えていたにもかかわらず、大正4年(1915)の大正度大嘗祭において「復活」した。海部郡木頭村で麻が栽培され、糸を紡ぐ工程は麻植郡木屋平村で、最後に麁服を織り上げる作業は麻植郡山瀬村山崎の忌部神社跡地に設けられた織殿で行われ、麁服が貢納された。
本稿は、その麁服貢納「復活」の直接的な契機は何か、運動の主体は誰か、「復活」の根拠は何か、徳島県はどのようにかかわったか、どのような運動のもとに「復活」が実現したのか等々を、当時の国の動きも視野にいれて、詳述している。そして、この大正度大嘗祭における麁服貢納の「復活」は、その後、県民の歴史意識にどのような影響を与えたかを、『御大典記念 阿波藩民政資料』上の「緒言」(1916年)、『徳島県郷土史』(1918年)、『徳島県民歌』(1939年)、『大阪毎日新聞徳島版』の54回にわたる連載「徳島県二千六百年史」(1940年)、『徳島県民手帳』(2019年)の記事を紹介しながら、鋭く描き出している。
平成の大嘗祭における麁服供納について 三木信夫
「一 麁服とは」、「二 江戸時代の大嘗祭復活と麁服」、「三 麁服奉仕者とは」、「四 皇位継承儀礼」、「五 中世までの麁服調進の仕組み」、「六 三木文書以外の阿波からの麁服調進史料―公家の日記(1小右記、2山槐記、3三長記)」、「七 忌部氏とは」、「八 阿波国忌部氏とは」、「九 布にする大麻栽培適地の開拓」、「十 平成の麁服調進」、「十一 麁服の史料」の十一章構成で、「平成大嘗祭の麁服調進」当事者の思いを書き述べている。
中世麻植郡の荘園について 福家清司
荘園は、律令制度の弛緩・崩壊に伴い、皇族・貴族・大寺社などが自らの力で財源確保に乗り出した結果できたものである。荘園領主は、本家職・領家職と呼ばれ、荘園現地で預所・下司・公文などの荘官を任命し、荘園の管理・年貢収納事務等に従事させた。荘園内部は年貢徴収単位としていくつかの名に分割され、それぞれに年貢納入責任者として名主が任命されるのが一般的であった。麻植郡の主な荘園等として、①高越寺・高越寺荘・高越荘、②河輪田荘、③河田荘、④忌部荘、⑤麻植保・麻植領・麻植荘、⑥浦荘、⑦山田荘、⑧小島荘、⑨川島保、⑩種野山を取り上げ、それぞれの所在・成立・領主・地頭などを、わずかな史料を手がかりに史料的に分かる範囲で概説している。そして、中世麻植郡は平氏政権下で平氏の所領であったため、鎌倉幕府成立後は関東御領に組み入れられ、その後、公家や御家人領となり、最終的には阿波国守護小笠原氏による支配地となった。室町幕府成立後は細川氏に取って代わられた。麻植郡は和泉半守護の和泉細川氏の所領となった。その意味で井上屋形の存在も重要であると結んでいる。
中世の高越山と修験道 長谷川賢二
本稿は、大師信仰と修験道に注目し、近世の縁起も援用しながら中世における高越寺の霊場としての性格を検討したものである。
11世紀には弘法大師伝承が地方へ波及し、四国と東国が修行地として強調されるようになる。元永元年(1118)成立の『高野大師御広伝』に空海が「高越山寺」を建立し、さらに法華経を書写・埋納したと書かれており、高越寺の大師伝承も、そうした時代背景のゆえと思われる。また、高越寺には保安3年(1122)~大治2年(1127)に書写された大般若経が伝承しており、12世紀のものと推定される常滑焼の甕、銅板製経筒が発見されている。ゆえに、12世紀の高越山は顕密仏教の山岳霊場として発展していた考えられる。
寛文5年(1665)成立の高越寺住職宥尊の縁起『摩尼珠山高越寺私記』(以下『私記』)に、弘法大師に関する伝承もさることながら、役行者(役小角)を開基とし、蔵王権現が「本社」に祀られ、その本地仏である千手観音が本尊として本堂にあると記述されていることから、17世紀の高越寺は、大師信仰が後退し、修験道色の濃い霊場となっていたといえる。高越寺の修験道の霊場としての起点は、『私記』から13~14世紀まで遡ることができる。「中江」(中の郷)に、貞治3年(1364)、応永6・16年(1399・1409)、永享3年(1431)の板碑が残っている。修験道の霊場として中世にはすでに聖域化され、14~15世紀には、山麓と山上が結ばれ、高越山内は霊場としての体裁が調いつつあったと考えられる。しかし、14世紀成立とされる『義経記』には、阿波を代表する霊場として焼山寺・鶴林寺が記述され、高越寺は霊場として突出した知名度をもっていなかった。
15世紀後半には、高越寺は和泉上守護細川氏の所領支配に組み込まれていた。永正11年(1514)の「蔵王権現再興棟札」には、上守護家の細川元常が大檀那となっており、「蔵王権現御社」と記されているので高越寺の修験道霊場化が明らかであり、「再興」とあることから、これ以前から蔵王権現が高越寺に祀られていたことは確かである。銘に「庄園太平」とあり、高越寺は、高越山麓の上守護家領である河輪田庄・高越寺庄の鎮守としての性質を帯び、地域の霊場としての機能があった。
16世紀半ばの高越寺と山伏との関係を示す「阿波国念行者修行道法度の事」(良蔵院文書)から、高越寺が当時の阿波では卓越し、広域的に信仰を集める霊場であったことが知られる。ただし、参詣する霊場ではなく、修行の場としての性格が強かったと考える。
本稿は、高越山・高越寺は12世紀から大師信仰があり、13~14世紀以降修験道の霊場として広域的に信仰を集める存在であったと指摘している。にもかかわず、四国88か所の札所のなかに含まれていないのは何故か。これは興味深い問題であると結んでいる。
吉野川市の中世城館跡 辻佳伸
徳島県の中世城館は平野部に過半の城館が集中し、平地城館が大半を占めるという特徴を有する。吉野川市の主な中世城館跡として、①吉野川水系の沖積平野に立地した平地城館の鴨島城跡、②吉野川沿いの河岸段丘上に位置した青木城跡・井上城跡(泉屋形跡・川田城跡)、③四国山地の山間部に展開した旧美郷村の城館群、④中世の城である上桜城跡、近世の城である川島城跡、等々を「縄張図」も交えながら紹介している。そして、吉野川市内の中世城館は、天正7年(1579)の脇城外の戦い、天正10年(1582)の中富川の合戦と長宗我部氏に関わる一連の合戦で城主を失い、多くの城館が廃城となったとしている。
篠原長房―阿波三好家の大番頭― 森脇崇文
16世紀中葉以降における三好氏権力は、協調する二つの連合体であった。中央政権を主催した「三好本宗家」、阿波勝瑞を拠点とした「阿波三好家」が互いに自律性を保ちつつ連携することで、全盛期を築いていった。
篠原長房は、これらのうち阿波三好家に属し、三好実休を支える宿老であった。彼は三好長慶・実休死後の三好本宗家が内部の主導権争いから分裂状態に陥ると、阿波三好家を束ねて畿内への出兵を繰り返していく。その戦いは義昭・信長が上洛してからも終わることなく、本宗家とともに畿内における三好氏勢力の旗印を掲げ続けた。いわば長房は、長慶・実休の代に築かれた「両三好家体制」の、最後の守護者と呼べる存在だったのである。しかし、長房の人生は不本意な形で幕を閉じる。幼少のころから推戴してきた阿波三好家の当主長治との関係を悪化させた長房は、居城の麻植郡上桜城を攻められ、横死を遂げる。 宿老として権勢を握ってきた長房は、一体なぜこのような最後を迎えることとなったのか。本稿は、阿波三好家における篠原氏の立場と長房の具体的な事績を叙述しながら、畿内における覇権争いも視野に入れ、突然の長房粛正に至る背景事情を鋭く描き出している。
長宗我部元親の阿波侵攻をめぐって 森脇崇文
天正10年(1582)8月28日の「中富川の合戦」を境に、三好一族による阿波支配は終わりを迎え、長宗我部元親が阿波の覇権を握った。「よそ者」の長宗我部氏が、阿波進出からわずか7年という短期間に三好氏を圧倒する勢力を率い、阿波の覇権を握ることができたのか。その理由を、①「阿波三好家」の成り立ち、②細川真之の出奔から三好長治の破滅へ、③阿波の内紛と長宗我部元親、④足利義昭帰洛戦争の中で、⑤阿波における親長宗我部勢力について、⑥織田政権との決裂、⑦中冨川合戦と勝瑞開城という七章を立て、論述している。つまり、三好本宗家と阿波三好家との違い、細川・三好家の内紛、細川真之との対立による三好長治の自刃(阿波三好家の断絶)、その後の阿波国内での「勝瑞派」と「反勝瑞派」の対立、足利義昭帰洛戦争への勝瑞派の協力と阿波三好家の復活、長宗我部氏の織田政権への帰属、反勝瑞派の長宗我部氏への与同、織田政権による長宗我部氏への阿波撤退命令、信長急死により窮地を脱した長宗我部氏、中富川合戦での長宗我部氏の完勝と阿波三好氏の阿波統治の終焉と論を進め、長宗我部氏の短期間にける阿波制圧過程を活写している。さらに、「おわりに」において、小牧・長久出の戦いに際しての長宗我部氏の行動が天正13年夏の秀吉の四国出兵につながったと結んでいる。
蜂須賀氏の阿波入国反対一揆と初期領国支配について 宇山孝人
本稿は蜂須賀氏の阿波入国反対一揆鎮圧の様相と支城駐屯制・地方知行制による領国経営の実態について論じたものである。
蜂須賀家政は、天正13年(1585)8月に阿波国の大部分を秀吉から拝領し、領国経営のために仕置目付3人を領内に派遣した。ところが、蜂須賀氏入国反対一揆が起こった。土佐国の甲浦から阿波国の仁宇山・大粟山・木屋平山・祖谷山までの四国山地、さらに阿讃山脈の岩倉山・曽江山と、阿波国の山間部全域に及ぶ大きな一揆であった。蜂須賀氏は土豪に協力要請し分断政策でもって鎮圧した。一揆鎮圧に協力した土豪等らには感状を下付するとともに、政所(後の庄屋)に任命し、領国経営の末端機構に組み込んでいった。
この一揆鎮圧を推し進める一方、蜂須賀氏は領国の治安と秀吉への軍役奉仕のために居城と「阿波九城」を築き、支城駐屯制と地方知行制でもって領国経営を展開した。支城駐屯制は秀吉への軍役奉仕の側面と領国経営の側面の両方において役割を果たした。軍役奉仕の側面では、城番と給人が寄親・寄子制的な関係で軍事出動したと思われる。そして、城番を始めとして給人は知行付で把握した農民の中から戦争に不可欠な戦闘要員(奉公人)や陣夫を動員した。領国経営の側面では、支城のある郡を中心に城番が各地域の特色に見合った支配をしたと考えられる。それゆえ、給知においては「藩主―城番―給人―農民」の支配システムが機能した。地方知行制は、往々にして給人・代官等の非法・横暴が発生しやすいので、城番が家来に担当地区を巡回させ、非法防止に努めたり、恣意的な百姓使役を阻止するために口頭命令を不可とする「墨付」(文書)主義をとった。そして、百姓に給人、代官・下代の非分はいつでも言上せよと促した。
また、蜂須賀氏が入国した天正13年の冬には指出を基準に検地が実施され、旧来の貫高制・地高制から石高制へ切替えられた。天正17年(1589)には本格的な検地が領内全域で実施された。これらの検地により、在地の土豪・地侍も検地帳に登録され、年貢納入者として百姓身分に位置づけられた。この結果、村落における兵農分離は大いに促進され、近世村落としての姿が形成されていった。但し、土豪・地侍等の兵農分離は貫徹されたが、農村には給人主従が在住し、戦時には戦闘員として徴発される「奉公人」が多数存在した。「奉公人」は平時は農耕に従事し、百姓身分に位置付けられるなど、完全な意味での兵農分離は貫徹できなかった。
近世川田村の成立 宇山孝人
本稿は、天正13年(1585)の蜂須賀氏入国以降、中世村落としての川田村がどのような過程を経て近世村落に変貌したかを論じたものである。
天正13年8月に蜂須賀氏入国反対一揆が起こり、この鎮圧に協力し功績をあげたのが住友彦兵衛・五郎右衛門兄弟である。彼らは蜂須賀家政から感状を下付され、川田村の政所などに任命された。家政は入国当初から石高制を導入し、天正17年に本格的な領内検地を実施した。この天正17年川田村検地帳には住友彦兵衛が藤十郎として登録され、百姓身分に位置付けられた。この検地帳で村切りが行われ、村高1417石余の近世川田村が成立した。
この天正17年段階の川田村は、9割強が畠地の村で、16%の20石以上層が約60%の石高を保有する家父長制的複合家族経営が展開している村落であった。
川田村は慶安期(1648~52)に人に即した分村が行われ、田畠・人家は黒白の碁石を盤中に打ち並べたように入り交じった状態であった。東川田村庄屋は住友彦兵衛家の系統が、西川田村庄屋は住友五郎右衛門家の系統が代々務め、東・西川田村の村名も両庄屋の居宅の位置から名付けられたものであった。
寛永9年(1632)棟付帳の「右之内」層を従属経営体と捉えた農民階層構成は天正17年(1589)の農民階層構成に類似し、独立経営体として捉えた場合の農民階層構成は明暦3年(1657)の階層構成に類似していた。さらに明暦3年棟付帳の「小家」の中にも多数の独立経営体が確認できる。つまり、天正17年→寛永9年→明暦3年と時を経るにつれ、家父長制的複合家族経営が解体し、小農経営主体の近世的村落に変貌していった。
阿波藩における表高と内高について 宇山孝人
本稿は、阿波藩の表高、表高成立過程、幕府への内高報告などを分析し、時の政権と表高の関係、蜂須賀氏の内高報告基調等の実態を論じたものである。
蜂須賀氏は肥後国検地の経験をいかして天正17年(1589)に阿波国の検地を大々的に実施した。この時、蜂須賀氏は、過去の年貢実績を勘案しながら、領主側と村側との双方の了承のもとに、土地の品位・面積・石高などを決定し、検地帳を作成したと考えられる。しかも、その検地帳は村側で作成し、その内容を検地役人が確認のうえ署名・花押を書いた可能性が考えられる。
蜂須賀氏はこの天正17年検地帳を写して天正19年(1591)の豊臣御前帳として提出し、この高が豊臣政権による公認村高・郡高・国高となった。さらに慶長9年(1604)の徳川御前帳提出命令に対して、蜂須賀氏は天正17年検地帳を筆写して慶長9年検地帳を作成した。そのため、慶長9年検地帳は「阿波国○○郡○○村御検地帳」と国名が冠せられ、奥書は「慶長九年甲辰霜月日 蜂須賀阿波守」と検地役人ではなく「蜂須賀阿波守」の署名となった。この慶長9年検地帳に基づく石高が徳川幕府による公認村高・郡高・国高となり、幕末まで変化しなかった。それゆえ、慶長9年検地帳は村高・郡高・国高の権原として藩庫に大切に保管された。
蜂須賀氏は享保15年(1730)に「御両国御蔵入高并諸士ニ被下地方高之覚」を作成し、阿淡両国の有高は40万7503石余を数えたが、幕府へは35万3730石余と5万3782石余少なく報告した。この40万石余の内高は以後の郷村高辻帳において超えることはなかった。蜂須賀氏は徹底して過小報告を繰り返したのである。
阿波藍について 宇山孝人
本稿は、阿波藍がいつごろから栽培されていたか、②播種から藍玉製造にいたる主な作業工程はどのようなものか、③江戸時代に阿波藍が急速な発展を遂げた理由は何か、④藍作の発展の結果、農村はどのように変貌したか、⑤阿波藍はその後どのようになったか、その原因は何か、などについて論述したものである。
阿波藍は15世紀半ばにすでに西日本に冠たる藍生産地としての地位を築いていた。特に17世紀後半以降、大いに発展を遂げた。その理由をいくつかあげる。全国的理由としては、①都市人口の増加、②綿作の発展、③藍商人による全国店舗展開と藍玉販売努力、③海上・陸上交通の整備などがあげられる。国内的理由としては、①吉野川が大河すぎて灌漑用水が引けず、稲作が困難であったこと、②豊作時における藍作の有利性、③阿波藩が専売制をしき、藍業の利益拡大に尽力したこと、④藍の有利さゆえに藍作農民の耕作意欲が旺盛であったこと、などがあげられる。
藍作の発展は農村を変貌させた。寛政7年(1795)の郡代報告書によると、麻植郡は藍作一辺倒になっており、風儀も他の郡に比べ悪いという。藍作ができない土地は放置し、中分以下の百姓が「葉藍問屋」・「走問屋」と称して葉藍売買に専念し、田畠の耕作は片手間にする。葉藍が高く売れた時は利潤が多いので、町人のように生活も質素でなくなり、衣服も贅沢になり、しかも次第に甚だしくなっている。葉藍値段が下落すると、田畠を質入れ・売却して手放す羽目になる。有力百姓の中には、田畠の質入れ・売却を目論んで干鰯を貸付け、小百姓の田畠を入手し、手広く商売をする者がいる。
この郡代報告書が指摘する農村の状況は、麻植郡に限らず、藍作地帯の村々で起こっている。例えば、宝暦14年(1764)の板野郡竹瀬村御蔵分の作付状況は藍が90%を超えており、まさに藍作一辺倒となっている。また、竹瀬村の村落構成は、18世紀から19世紀初めにかけて中間層の浮沈が烈しく、木内家が土地をどんどん集積する一方で、5反以下・無高の百姓が激増するという農民層分解が生じている。このことは、18世紀後半の藍作地帯の村々において5反以下・無高層がそれぞれ80%を超えていることからも窺える。
阿波藍はその後も発展を遂げ、文化元年(1804)には20万俵を超える藍玉が生産され、最高は明治36年(1903)の作付面積1万5099ヘクタール、葉藍生産高2万1958トンであった。しかし、明治末年に安価なインド藍、さらに人造藍が輸入されるようになり、阿波藍の栽培は激減し、昭和40年(1965)には栽培面積がわずか4ヘクタールにまで減少した。
芳川顕正伯爵とその時代 宇山孝人
本稿は、教育勅語発布時の文部大臣として有名な芳川顕正の生誕から死没までを日本の歴史と並行させながら概観したものである。
芳川は、東京府知事、文部・司法・内務・逓信の各大臣、枢密顧問官、皇典講究所長、國學院大学長、枢密院副議長などを歴任している。生家が貧しかったが学問によく精進し、様々な人との出合いがあり、その時々の人たちにより引き立てられていった。特に伊藤博文・井上馨・山県有朋・桂太郎ら長州閥の引き立てで、立身出世しながら要職を歴任した。これも芳川の能力・努力・人柄のゆえであると考える。また、海外の先進国を見据えた視野の広さ、企画力、綿密さ等々、実務派としての有能さも東京「市区改正」(都市改造)において垣間見られた。
教育勅語は山県有朋が中心となって推し進めたものである。起草は元田永孚と井上毅である。芳川顕正は、前任者の榎本武揚文相が徳育にあまり関心がないからと更迭された後、山県の推薦で文部大臣となり、明治天皇から山県とともに下命を受け、「教育勅語」発布の取りまとめの役割を果たしたにすぎない。ただ、教育勅語の趣意と普及拡張のために、①勅諭を教科書の巻頭に載せ、日課を始めるごとに勅諭を拝誦する、②勅諭衍義を著述発行し、文部大臣が検定して教科書として修身倫理の正課とするとしたことは、後々の教育に大きな影響を与えることになったのは確かである。